読売日本交響楽団と特別客演コンサートマスターの日下紗矢子は2021年7月21日サントリーホールの第610回定期演奏会(飯守泰次郎指揮)でモーツァルトとブルックナーの交響曲を演奏した翌日、よみうり大手町ホールの「読響アンサンブル・シリーズ」第31回「日下紗矢子リーダーによる室内合奏団」演奏会でヴィヴァルディ、ジェミニアーニの18世紀音楽とピアソラ、ゴリホフの20世紀音楽を鮮やかに弾き分けた。少し前まで日本のオーケストラ楽員が室内オーケストラ編成を組み、バロック音楽を演奏しても古典派〜ロマン派と大差ない奏法、様式感のアプローチにとどまり、HIP(歴史的情報に基づく演奏)を重視する世界の趨勢との乖離が目立った。ドイツ留学後、名教師ライナー・クスマウルの下で様式感を根底から学び直した日下は、フランチャイズ(本拠)のベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団で第1コンサートマスターの傍ら(クスマウルがクラウディオ・アバドに請われて短期間、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団コンサートマスターを務めた時と同じように)楽員たちの室内オーケストラを率い、様々な時代の音楽を適確に描き分けてきた。その蓄積が読響でも生きる。
1940年生まれの飯守は1964ー1970年に「副指揮者」、さらに1976年まで「指揮者」を務めたにもかかわらず、以後の共演は二期会や新国立劇場のワーグナー上演のピットにとどまり、定期演奏会を指揮するのは46年ぶり。しかも、コロナ禍で来日できなくなった前首席客演指揮者コルネリウス・マイスターの代役だ。前半のモーツァルト「ハフナー」交響曲では、東京シティフィルハーモニック管弦楽団(現在は桂冠名誉指揮者)など気心知れた楽団を振る際より明確な棒さばきで予拍(アウフタクト)もはっきりと与え、テンポやニュアンスを丁寧に示していく。後半の大曲に備えてセーヴしたのか、両者まだハラの探り合いだったのか、しみじみした味わいに富んではいたものの、手応えとしては些か物足りなかった。
後半のブルックナー「ロマンティック」交響曲は指揮者、オーケストラの両者が噛み合って持てる力を極限まで出し合い、多少のキズをものともせず大きく音楽を奏でる行為への集中が凄まじい。輝かしい金管に彩られた豪壮なトゥッティ(総奏)の醍醐味はもちろん、一転して静寂が訪れる場面での弦の繊細なニュアンス、木管の色合いに富むソロからは、しばしばメタフィジカル(形而上的)な響きが立ち上り、紛れもなくマエストロと優秀な楽団による名演奏を実感させる。あまりに長い不在、楽員の急速な世代交代がマイナスに働き、時にアンサンブルが綻びかけてハラハラもしたが、日下の絶妙なフォローで感動のフィナーレに至った。客席の沸き様はすごく最初からスタンディングの人もいて、飯守は感激の面持ち。当然、楽員退出後も独り呼び戻される「お立ち台」の幕切れが用意されていた。
この壮大なブルックナーの荒技の24時間後、日下に率いられた読響の弦20人のチェンバー(室内)編成は鍵盤(チェンバロとピアノ)の大井駿を交え、引き締まったフレージング、アーティキュレーションのバロックと、タンゴやジャズ、クラシック系モダンミュージックなど多彩な要素を散りばめたピアソラ、そのオマージュとして作曲されたゴリホフの熱狂を鮮やかに対比させた。ふだん古楽演奏を積極的に行なっているとは思えない奏者たちが合奏、ソロ、通奏低音それぞれの場面できっちりピリオド(作曲当時の)奏法を踏まえ、「四季」と「ラ・フォリア」の魅力を引き出した。大井の鍵盤も出過ぎず引っ込み過ぎず、美しいタッチで豊かな彩りを与えた。とりわけジェミニアーニのバロック・ヴァイオリンの巨匠たち顔負けの切れ味、ピアソラの妖艶にしなる美音を弾き分けた日下のソロは圧巻だった。
今から40数年前、イ・ムジチ合奏団などの録音を担当していた旧「フィリップス」レーベルのプロデューサー、ヴィットリオ・ネグリが指揮者として読響に客演し、ヴィヴァルディの「四季」を演奏する「都民芸術フェスティバル」公演を東京文化会館大ホールで聴いた。燕尾服姿のネグリが大編成の読響を振り、朗々と鳴らすヴィヴァルディは当然ながらイ・ムジチと全く違い、こってりゴージャスだったが、全員男性だった当時の奏者たちはひたすら仏頂面で弾いていた。確かに世代が一変し、女性の活躍も目立つとはいえ、過去40年間に日本のオーケストラが集団として獲得したHIPの認識、奏法への反映だけでなく、あふれる笑顔に個々の奏者の意識の変遷も垣間みえて、日下合奏団の演奏を心から楽しんだ。
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