• 池田卓夫 Takuo Ikeda

バックハウス・延原武春・大野和士

クラシックディスク・今月の3点(2019年7月)


ベートーヴェン「ピアノ・ソナタ全集」(第1~32番)

ウィルヘルム・バックハウス(ピアノ)

今年はドイツ・ライプツィヒ出身の偉大なピアニスト、ウィルヘルム・バックハウス(1884ー1969)の没後50年に当たる。もう1つ、来年(2020年)のベートーヴェン生誕250年もにらみつつ、バックハウス2度目のソナタ全集が初めてDSD方式のリマスタリングを施され、上下2巻のSACDシングルレイヤー盤として登場した。


SP盤の時代からベートーヴェンのソナタを断続的に録音してきたバックハウスだが、32曲の全集に挑んだのはLP時代になってから。先ずモノラル録音のセットが1950〜54年、スイス・ジュネーヴのヴィクトリア・ホールで制作された。バックハウスは1933年、アドルフ・ヒトラー率いるナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)がドイツの政権を掌握するとスイスのルガーノへ移住、1946年には国籍もスイスに変更(帰化)していた。高音質を武器に勢力を拡大しつつあった英デッカ社はわずか4年後の1958年、同じホールでのステレオ再録音に着手。1969年4月までに第29番「ハンマークラヴィーア」を除く31曲の収録を終えた。バックハウスは同年6月28日、オーストリア・ケルンテンでのリサイタル中に体調不良を訴え、休憩後にシューベルトの「即興曲」の1曲(作品142の2)を弾いて入院。1週間後の7月5日、85歳の生涯を閉じたため、「ハンマークラヴィーア」にはモノラル録音をそのまま使い、「2度目の全曲盤」として、セットを発売した。


若いころは超絶技巧で「鍵盤の獅子王」と呼ばれたバックハウスだが、晩年は滋味を深め、より穏やかな芸風へと変化していた。私がベートーヴェンのピアノ曲(ソナタや協奏曲)を聴き始めた小学高学年〜中学の時分は同じドイツのウィルヘルムでもケンプの幻想的な演奏か、その対極でロシア系のヴラディーミル・ホロヴィッツやエミール・ギレリスらの強じんな演奏に惹かれ、バックハウスには全然、ピンとこなかった。「これじゃあ、歯の抜けた獅子王だよな」などと、非常に失礼な発言をした記憶すらある。


今にして思えばガキの戯言、バックハウスの良さを聴き分ける耳も教養も備わっていなかっただけで、非常に恥ずかしい。音楽が仕事の一部に組み込まれ、ドイツにも4年間駐在、ドイツ語を話せるようになった一方、ピアノ音楽や演奏解釈の歴史を自分なりに調べてきた今、2度目の全集盤をSACDで聴けた喜びは予想以上に大きかった。まる1日かけ、全曲を一気に聴いた。何より、鍵盤を「たたく」よりも「押し込む」に近いタッチで楽器(ベーゼンドルファー)を内部から深々と自然に鳴らし、金属的に響く瞬間が皆無な音の美しさに感心する。奏法のルーツをたどっても、ベートーヴェン→チェルニー→リストの直系に属していて、作品にふさわしい弾き方を身につけていた。様式観では「ノイエ・ザハリヒカイト」(新即物主義者)の世代に属し、ロマン派世代の過度に個性的な弾き崩しを戒め、「楽譜に忠実」な演奏を基本とするが、それは、ガチゴチの原典主義とは全く異なる。克明に再現される音符と音符の間の時間、空間、余白…、つまり音の鳴っていない部分に長年の経験や研究を通じた膨大な情報量が潜み、ある時は厳かに、またある時は優しく可愛らしく、フレーズをニュアンスゆたかに歌わせていくのだ。揺るぎない奏法と、間の取り方の絶妙さ! 10代前半の日本人、しかもピアノを全く弾かない男の子では絶対わからない部分に、バックハウスの素晴らしさは存在していたのだった。

(ユニバーサル)


J・S・バッハ「ブランデンブルク協奏曲全曲」(第1〜6番)

延原武春(指揮)

テレマン室内オーケストラ

「ああ、ノブさんのバッハだ!」。「ブランデンブルク協奏曲第1番」が始まった瞬間、「ノブさん」こと延原武春の指揮する管弦楽ならではの温かく、優しく、弾力性に富んだ響きの特色を思い出した。1963年(昭和38年)に大阪市で日本テレマン協会を立ち上げ、18世紀音楽の研究と普及に努めてきたパイオニア。オーボエ奏者と指揮者を兼ね、モダン(現代)楽器とピリオド(作曲当時の仕様の)楽器の両分野で、幅広い時代の音楽の様式を究める姿勢は、時に「何でも屋」と批判されるが、「楽曲本来の様式に最適の表現を、あらゆる角度から探る」との芯が一本通っている。加えて関西人の美点である「おもろさ」への執着だろうか、ペダンティック(衒学的)な古楽演奏への展開を避け、楽しさが前面に出る。


かつて英国のバロック・ヴァイオリンの大家、サイモン・スタンデイジを定期的に招き、ピリオド楽器の「コレギウム・ムジクム・テレマン」として何度も演奏した「ブランデンブルク協奏曲」全曲。今度はモダン楽器のテレマン室内オーケストラを自ら指揮、2018年11月18日に東京文化会館小ホールで行った演奏会のライヴ録音で、最新の境地を世に問うた。


メンバーの世代交代が進み、技術の基盤が安定した結果、「テレマン流」の個性が一段と鮮明になったようだ。ヴァイオリンの浅井咲乃、チェンバロの高田泰治をはじめとするソロの巧みさにも感心する。延原の指揮は脱力が行き届き、「環境に優しいバッハ」の趣がある。

(ナミ・レコード)


ショスタコーヴィチ「交響曲第10番ホ短調作品93」

大野和士(指揮)

バルセロナ交響楽団

東京文化会館と新国立劇場が初めて共同制作、2020年の東京オリンピック&パラリンピックをにらんだ新演出オペラの第1作「トゥーランドット」の演出、管弦楽はともにスペイン・カタルーニャ自治州の芸術家が担った。東京文化会館を本拠とする東京都交響楽団の音楽監督、新国立劇場のオペラ芸術監督を兼ね、プロジェクトの仕掛け人である指揮者の大野和士がバルセロナ交響楽団の音楽監督でもあることから実現した国際交流のイベントだ。バルセロナ響はリセウ歌劇場の管弦楽団とは別の団体で、本来はシンフォニー・オーケストラだから、「トゥーランドット」の日程を縫って演奏会も行い、ベートーヴェンの「第9」交響曲から同郷の新進サントコフスキーが吉田兄弟のために作曲した「2つの三味線とオーケストラのための協奏曲」、デ・ファリャの「三角帽子」まで、実に多彩なプログラムを披露している。プッチーニやベートーヴェンを聴き「楽員1人1人のメカニックは都響はじめ、日本のトップクラスに劣るかもしれないが、和音が弾けた時の色彩感、ラテンの土臭い香りには抗しがたい魅力がある」と、私は書いた。その「前言」を覆す、驚くべき新譜である。


この暗く重くシリアスな眼差しに貫かれ、緊張が一瞬たりとも緩まないショスタコーヴィチの「第10」は何だろう? 


第1の要因はもちろん、つねに正面突破の真摯な演奏解釈に挑む大野という指揮者の資質に求められる。極彩色の万華鏡ではなく、社会派カメラマンによるモノクロームの報道写真を思わせる大野の音づくりは、ショスタコーヴィチへの適合度が高い。音楽評論でも大活躍のドイツ文学者、許光俊・慶應義塾大学教授が執筆した解説書にも「大野は、ソヴィエトに根ざしたショスタコーヴィチの音楽の特徴を損ないたくないと考える。自由に物が言えない、表現できない時代や地域において書かれた作品ならではの秘められた何かをえぐり出したいと考える」とある。


第2の要因は、スペイン王国の中でカタルーニャ自治州が置かれた立場と関係する。再び許さんの引用。「バルセロナ、あるいはカタルーニャ地方は、長い間、スペイン本国から抑圧されている地域である。かつてのソ連や社会主義諸国のような弾圧や差別や虐待と似た構造がある」。現在の若く、それなりに多国籍の楽員全員が共有する意識ではないにせよ先輩楽員、あるいは旧ユーゴスラヴィアの内戦をクロアチアの首都ザグレブのフィルハーモニーの首席指揮者として体験した大野から語り継がれるであろう「時代の記憶」が、この演奏にとてつもない深みを与えていることは確かだろう。バルセロナ響、もう1つの顔をみた。

(アルトゥス)












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