哲学者ニーチェは最初ワーグナーと親交を結んだが、次第に考え方の食い違いが顕在化して1876年ころ決裂、ドイツ精神の対極といえるビゼーの「カルメン」に強く傾倒していく。2021年12月第3週の私は、19日に埼玉県の和光市民文化センター「サンアゼリア」でオペラ彩第38回定期公演で「カルメン」全曲を見た翌日、東京の渋谷区文化総合センター大和田「伝承ホール」の「わ」の会コンサートvol.7「Herausforderung(ヘラウスフォーダルング=挑戦)」でワーグナー5作品のエッセンスを堪能した。ニーチェと真逆の足跡だ。
オペラ彩の「カルメン」では先ず、佐藤正浩の指揮する管弦楽(アンサンブル彩)が優れていた。キビキビと精彩に富み、色彩感にも事欠かない。このカンパニーで不動の演出家、直井研二は地域オペラの枠組みに則った簡素でオーソドックスな視覚に徹し、音楽学生やアマチュア、市内の子どもたちを寄せ集めた合唱の群衆処理にも長けている。今回はソーシャルディスタンシング(社会的距離の設定)の観点から合唱をあまり動かさず、東京創作舞踊団(振付=藤井利子)がストーリーに即した様々なダンスを繰り広げ、メリハリをつけた。
歌手では題名役の丹呉由利子(メゾソプラノ)、ホセの小野弘晴(テノール)の藤原歌劇団コンビが優れていた。スレンダーな丹呉の醸し出すセクシーな雰囲気、ロブストな(強い)声質の小野が放つ直線的な情熱は、大詰めの二重唱で大きなクライマックスを築いた。
バリトンからテノールに転じたパク・ドンイルのレメンダートはじめ、脇を固める歌手たちも強力だ。パクが舞台で「とんぼ返り」も切り、メラニー・ホリデー以来の驚きだった。
「わ」の会は新国立劇場オペラ音楽チーフで、今年はワーグナー「ワルキューレ」、ロッシーニ「チェネレントラ」の代役指揮でも健闘した城谷正博が代表を務め、字幕と解説を受け持つ音楽学者の吉田真がドラマトゥルグ格で関わり、日本の歌手たちとワーグナー楽劇の奥義を極めるマニアック集団。城谷がテキスト読解から歌手を鍛え、本番はピアノ1台の〝オーケストラ〟を燕尾服姿で真正面から振り(指揮棒も持っている)、ワーグナーのエッセンスを巧みに引き出していく。今年のvol.7は11人の歌手が参加、うち6人が新顔だ。ピアノも木下志寿子の孤軍奮闘から巨瀬励起との分担に変わり、回を重ねるごとに規模も拡大していることがわかる。池田香織や大沼徹、大塚博章、片寄純也、友清崇の常連勢は年齢とともに声、演技力とも熟してきた。彼らのコッテリとした聴き応えに対し、とりわけ2人の新進テノールーー伊藤達人、岸浪愛学の伸び盛りの美声が見事な対照を描いた。伊藤はつい最近、新国立劇場の「マイスタージンガー」でダーヴィットに代役抜擢され、大きな成果を収めたばかり。5回続けて全曲を歌い演じた経験は明らかで、役が体の中に入っていた。
欧米の巨体歌手に比べれば小柄の日本人歌手がワーグナーを歌う場合、どうしても「巨声コンプレックス」に苛まれ、絶叫しがちとなる。昨夜もその傾向なきにしもあらずの歌があって、「せっかくピアノ1台の伴奏、小ぶりのホールでの講演なのだから、もう少しテキストをじっくり歌い紡ぐ余裕があってもいいのに」と感じないわけではなかった。だが、これもvol.8、9、10…と回を重ね出演を続けることで自然に解消する問題に思える。何よりも、休憩込み2時間の枠の中に5作を取り込み、「ワーグナーをガッツリ聴いた」との充足感を与えてくれたことが賞賛に値するし、素晴らしい体験だったといえる。
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