• 池田卓夫 Takuo Ikeda

ドゥダメル&LAPOの人生肯定マーラー



グスターボ・ドゥダメル指揮ロサンゼルス・フィルハーモニック(LAPO)4年ぶりの来日は楽団の創立100周年、ドゥダメルの音楽・芸術監督就任10周年、さらに彼がバンベルク交響楽団主催のグスタフ・マーラー国際指揮者コンクールに優勝してヨーロッパ楽壇の寵児となって15周年の節目を重ね合わせた、祝祭的な雰囲気に包まれていた。私が聴いたのは2019年3月22日、サントリーホールのマーラー「交響曲第9番」。輝かしい一夜だった。


2008年、一心同体であるベネズエラのシモン・ボリバル・ユース・オーケストラとの初来日はセンセーションだったが、2014年のウィーン・フィルとの来日やアムステルダムで聴いたロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団など、名門楽団への客演ではオーケストラ・ドライヴの未熟を露呈、スター指揮者への促成栽培を危惧していたが、杞憂に終わったようだ。


ソロ、アンサンブルの両面で全米屈指の実力を備えるLAPOの力をフルに引き出し、臨場感満点の音楽を奏でる。自身をスターに演出する素振りは一切みせず、カーテンコールでも楽団の一員の立ち位置を守る。1980年代にクラウディオ・アバドが成し遂げた指揮者とオーケストラの力関係の歴史的転換=垂直方向(段差を明確にした上意下達)から水平方向(同じ平面状の共同作業)への転換、楽員は年齢の上下を問わず「マエストロ」ではなく「クラウディオ」と彼のことを呼んだ=の先に、1981年生まれのドゥダメルは位置している。だが、恐ろしく精妙な楽譜の読みに基づいて随所で発揮される即興センスの妙は、優れた指揮者にしか得られない醍醐味以外の何物でもなく、いささか妖しいまでの二律背反がたいそう興味深い。それにしてもLAPOはとても素晴らしいオーケストラだと、改めて感心した。


マーラーの「第9」はこれまで、「世紀末」「崩壊や死への予感」「ペシミズム」など重苦しいイメージとともに語られることが多かった。ベートーヴェンの先例をにらみ、「打ち止めの9番」のジンクスまで語られてきた。最後に変ニ長調へ転じるとはいえ、主調に堂々と肯定的なニ長調を選んだことと終末思想とが、私にはどうしても結びつかなかった。マーラーの優れた解釈者だったガリー・ベルティーニが音楽監督として最後に東京都交響楽団を指揮したときの曲目も、第9番だった。晴れ晴れとした演奏で、ハイドンからマーラーに至る交響曲、あるいは音楽自体の歴史を信じきり、マーラーが未来に向けて開いた窓のような結末(シュルス)だと私には思えた。終演後のマエストロにその旨を告げると「そうだ、そうなんだよ」といい、しっかりとハグされた。最近の研究では、この曲の作曲を進めていた当時のマーラーは指揮者として多忙を極めてキャリアの絶頂にあり、健康状態も決して悪くなかったことが判明した。「円熟の証であっても決して辞世の句ではない」が現在の定説だ。


ドゥダメルは、文学的な先入観に浸って余計なイメージを増幅するのではなく、楽譜に書かれた音のすべてをLAPOの優れた演奏能力を介して克明に再現、後期ロマン派の芳醇な響きに包まれて人生を肯定する音楽として、「マーラーの第9」を描く道を選択した。第1楽章の始まりこそ手探りだったが、次第に調子を上げ、第3楽章終結部の追い込みなどで、鬼気迫る音楽を現出させた。第4楽章のゴージャスな雰囲気は極上、対向配置の結果の第2ヴァオイリン群の雄弁な表情も秀逸だった。クライマックスで第1交響曲を思わせるホルンの水平吹きを演出したのは、ちょっと過剰サービス? その後は再び静謐な音の世界に回帰し、すべてが消え入るように終わってから先の指揮者、楽員、聴衆が一体となっての驚異的な沈黙の長さは特筆に値しよう。最初はドゥダメル、LAPO、マーラーの「第9」に対して様々な異論を持ちながらサントリーホールの時間を共有した人々が、最後に溶け合った。ライヴで音楽を聴く楽しみの模範解答の1つが、そこには示されていた。ドゥダメルも同じような気持ちで、自己顕示欲を極端に削ぎ落としたカーテンコールに徹していたのではないか?

© 2018 音楽ジャーナリスト@いけたく本舗

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