開催中のサントリーホール・ブルーローズの「チェンバーミュージックガーデン2021」(会期終了後に一括レビューの予定)に出演した小菅優(ピアノ)、吉田誠(クラリネット)、金川真弓(ヴァイオリン)ら若い世代のソリストに対し「いつの間に、こんなに素晴らしい日本人演奏家が育っていたのか」「間違いなく世界水準」といった驚きが、SNS上で目につく。「もうかなり前から存在していましたが、皆さんの耳目が外来スターに集中していただけです」と思わず書き込みたくなりもするが、コロナ禍の長期化は期せずして、過度の〝外タレ〟依存を正す好機となった。もちろん生活や教育、職場のグローバル化が進み、ある時期まで存在した「日本独特の弾き癖」「悲しいほど正確なだけで主張のない演奏」が激減、留学や国外での実績、室内楽への積極的な取り組みなどを通じ、国籍を超越した音楽活動が可能になった時代の流れもある。
新聞社勤務時代の1993年に証券部から文化部へと異動した当時、日本人演奏家を賞賛する記事を書くと(インターネットが普及する前の時代)、「お前、あのヴァイオリニストからいくら貰っているんだ」「このソプラノ、ドイツの所属歌劇場では〝お荷物〟なのを知らないのか」といった激しい文面の投書を何度もいただいた身にしてみれば、隔世の感があると言わざるを得ない。数年後、コンクールや奨学金の審査にも携わるようになって、逸材と10代の素材時点で遭遇する幸運にも恵まれてきた。過去1週間はトップクラスの日本人ソリストのリサイタル、室内楽に感心する日々だった。それぞれ名曲だけでなく、同時代の作品や新たな聴かせ方の工夫も交え、刺激に富んだプログラミングで魅了した。
1)ピアノデュオ・ドゥオール(藤井隆史&白水芳枝)CD「Duo Energy」発売記念リサイタル(6月15日午後2時、東京文化会館小ホール)
ラフマニノフ「交響的舞曲」第1楽章/「組曲第2番」第3曲「ロマンス」
ボロディン(ポープ編)「だったん人の踊り」(以上、2台ピアノ)
サン=サーンス(ガーバン編)「動物の謝肉祭」ーー谷川俊太郎の詩「動物たちのカーニバル」の詩をドゥオールが演奏しながら朗読ーー(1台ピアの4手連弾)
藤井&白水夫妻とはドイツ留学から帰国した直後、新聞社を訪ねてきて知り合った。デュオ名の発案者も、私の知り合いだ。コンサートとディスク制作、教育の幅広い分野で精力的な活動を続け、演奏も日増しに迫力と説得力を増してきた。今回はコロナ禍も考慮し、休憩なし1時間あまり、別プログラムの昼夜2公演で気をはいた。私は夜、後述する別公演に出かけたので昼を聴いた。
ラフマニノフでは2人のアンサンブルだけでなく、それぞれのピアニストとしての確かな力量を確認。「動物の謝肉祭」ではナレーションの上手さにも驚いた。「前は声楽家や俳優さんにお願いしていたのですが、演奏とのイメージ、タイミングの一致が難しく、劇団四季の母音法とかも参考にしながら、暗譜と同時にナレーションも行うことにしたのです。谷川さんにもちゃんと、許可をとっています」と、藤井は説明する。それだけの「想い」と準備を経て披露したパフォーマンスが悪いはずはない。とても楽しかった。
2)「B→C(バッハからコンテンポラリーへ)」第233回「濱地宗(ホルン)」
ピアノ(沼尻、バルドトゥ、ホリガーを除く)=中桐望、ソプラノ(シューベルト)=鈴木玲奈(2021年6月15日19時、東京オペラシティリサイタルホール)
濱地を最初に聴いたのは2010年、第8回東京音楽コンクールの本選審査員を務めた時だった。この時は金管部門第2位。前後して札幌のPMF(パシフィック・ミュージック・フェスティバル)でも演奏に接した。群馬交響楽団首席に就いた後の2017年には、第86回日本音楽コンクールのホルン部門第1位を得た。2010年の本選、オーケストラとの共演作品に決して得点をあげやすいとは思えないR・シュトラウス晩年(1942年)の「ホルン協奏曲第2番」を敢えて選び、確かな音楽性と骨太の音色を強く印象づけ、その名を記憶に刻んだ。
「B→C」では選曲の妙はもちろん、金管楽器のリサイタルで過去最高かと思えるほど洗練されたエンターテインメントの時間を楽しんだ。肉厚で骨太の音にはますます磨きがかかり、良く通る地声を交えたホリガー作品ではどこまでがホルンでどこからが濱地か判然としないほど一貫した「歌」の流れをつくった。
沢田への委嘱新作は「谷川俊太郎の詩による」とあり、期せずして昼夜2公演を通じ、この偉大な詩人と音楽の密接な関係に想いをはせる展開となった。ブラームスやR・シュトラウスらロマン派のホルン作品へのオマージュともいえる曲想は、濱地の音楽性を踏まえてのものだろう。ヘルマン・ヘッセの小説「ガラス玉演戯」にはクロアチアの元大統領で作曲家ヨシポヴィッチのピアノ曲もあるが、濱地が演奏した米国のトロンボーン奏者ベッケルJr.の作品はより明るい響きに彩られ、ホルンだけでなくピアノにも、かなりの超絶技巧を要求する。中桐のピアノを聴くのは実に久しぶりだったが、ソロだけでなく「合わせ物」においても大柄で陽性な音楽性と切れ味のいいテクニック、リズムの魅力が存分に発揮され、見事なデュオに仕上げた。長くポーランドで研鑽を積んできた成果は前半のペンデレツキにも現れていて、濱地の熱演を盛り上げた。ソプラノの鈴木は第86回日本音コン声楽部門1位の〝同期〟といい、透明で鳴りのいい美声で極上の花を添えた。
3)「Special Chamber Music Concert in TOKYO vol.3」(2021年6月16日14時30分、杉並公会堂小ホール)
ヴィオラ奏者の朴梨恵が出身地の京都で始めた室内楽プロジェクトの東京編で、3回目を迎えた。今回はライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団に因む選曲。メンデルスゾーンと、その後任カペルマイスター(楽長)だったデンマーク人ゲーゼそれぞれの「弦楽八重奏曲」を休憩なし1時間半のコンサートで昼夜2回、演奏した。名曲中の名曲、メンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲ホ短調」がゲヴァントハウスのコンサートマスター、フェルディナント・ダーフィットの独奏とゲーゼの指揮で初演されたのに対し、ゲーゼの「八重奏曲」はメンデルスゾーンの死後まもなく作曲、ダーフィットらによって初演された…といった連関がある。まもなく出産予定の朴はメンデルスゾーンのみ出演、ゲーゼの第2ヴィオラには急きょ、若手の森野開が呼ばれた。中恵菜は6月12日、サントリーのチェンバーミュージックガーデンではカルテット・アマービレの一員としてエルサレム弦楽四重奏団との共演に参加、同じメンデルスゾーンで第2ヴィオラを担ったが、今回は第1ヴィオラに回った。ご本人にメールで感想を尋ねると、「全く違うアプローチの箇所ばかりで、とても刺激的で面白かったです。1週間のうちに違うパートとメンバーで弾けるなんて、貴重な経験でした」と、手ごたえを伝えてきた。
いかに恩師メンデルスゾーンを追悼する意味があるとはいえ、ゲーゼ作品の〝二番煎じ〟感は拭えず、演奏順序はこれで正解だった。改めて、10代のメンデルスゾーンの天才を思う。演奏は縦横無尽、全員の水準が高い次元で一致して見事だった。かつての日本的「合わせ」をはるかに凌駕する、積極的な室内楽の会話を繰り広げた。中でも実質コンサートマスターの植村太郎の熱く正確なリード、低音を支える荒井結、辻本玲のチェロは光っていた。
4)「植村理葉ヴァイオリンリサイタル」(2021年6月18日19時、東京文化会館小ホール) ピアノ=佐藤彦大(ひろお)
ベートーヴェン「ヴァイオリン・ソナタ第10番」
シューベルト「同イ長調D574」
ヘンツェ「ヴァイオリンとピアノのための5つの夜曲」
シューマン「ヴァイオリン・ソナタ第3番」
ドイツ暮らしの長い植村が「ドイツの当たり前の日常が溢れ出て、それぞれの曲の魅力、作曲家の想いが伝われば幸いです」と考え、並べた4人の4曲。ベートーヴェンは「ピアノとヴァイオリンのための」、シューベルト以降は「ヴァイオリンとピアノのための」と、プログラム冊子で書き分けたように、2つの楽器のデュオ様式の変遷にも確かな視点を与えた。
ベートーヴェンの冒頭数小節を聴いただけで「今夜は、とびきりヨーロピアンなデュオが楽しめる」と直感した。フワーッと風のように聴こえてきて、絶えず程よい乾きと軽やかさをたたえるヴァイオリンと決してたたかず、細心のニュアンスに気を配りつつ必要な音色すべてを適確に再現するピアノ。両者の音が重なり合う瞬間の和声には日本人離れした立体感と色彩があり、大言壮語の対極にある日常性(植村が目指した「ドイツの当たり前の日常」に相当する)が全体を柔らかく包み込む。倍音をたっぷりと響かせる美しさも好ましい。
ベートーヴェン後期の幽玄と巧まざるユーモアの境地をさりげなく描き、最後に放たれる「問いかけ」最初の回答者、シューベルトが踏み出した新たな歩みを風のように追いかけ、同一の音楽史の延長戦上にヘンツェを位置付け、屈折とともに噴出するシューマンのロマンで客席をカタルシス(鬱積した感情の解放と浄化)へと導くーーこれほど知的かつ感覚的に磨き抜かれ、ヴァイオリンとピアノのデュオの醍醐味を堪能させるプログラミングは、日本ではまだ、滅多にない。とりわけ、ヘンツェのさめざめとした美しさが深い余韻を残した。「しばらくの間、植村と佐藤のデュオを継続して聴いてみたい」と、心の底から希望する。
5)「大瀧拓哉ピアノリサイタル」(2021年6月20日14時、なかのZERO小ホール)
リゲティ「ムジカ・リチェルカータ」(第1ー11番)
バルトーク「2つのルーマニア舞曲」
松岡あさひ「青いリズム」
フランク「前奏曲、コラールとフーガ」
ラヴェル(レイチキス編)「ボレロ」
大瀧のリサイタルを聴くのは昨年8月24日の東京文化会館小ホール以来2度目。先ずは当時の本HPのレビューを貼り付ける:
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シュトックハウゼン「ピアノ曲Ⅸ」、ベートーヴェン「ピアノ・ソナタ第32番」、ジェフスキ「《不屈の民》変奏曲」
大瀧は新潟県立長岡高校から愛知芸術大学、シュトゥットガルト音楽大学、アンサンブル・モデルン・アカデミー(フランクフルト)、パリ国立高等音楽院…と進み、2016年に仏オルレアン国際ピアノコンクールで優勝、2019年に帰国した。リゲティの「エチュード」の名解釈者、トーマス・ヘルにも師事している。東京をスルーしてヨーロッパへ出たため知名度は低いが実力は第1級、今回のリサイタルも文化庁・日本演奏連盟主催「新進演奏家育成プロジェクト リサイタル・シリーズ TOKYO93」の文化庁委託事業の枠で実現した。
かなり〝屈折〟したベートーヴェン生誕250周年のプログラミングと読んだ。ドイツ音楽のある意味「終点」であるシュトックハウゼンには徹底してシャープな音像を与え、「古典」としての距離感を置く。逆に「起点」側のベートーヴェン最後のソナタでは未来志向の実験精神を強調、あえて形をつくらない。奏法も何故か日本伝来?のハイフィンガーに戻り、美しい音を意識的に避けていた〝確信犯〟の解釈は後半、ジェフスキで磨き抜かれた合理的奏法と多彩な音色を体験した後で一段とはっきり、知覚された。ヤマハCFXの音のポテンシャルを極限まで引き出して65分間、1度も緊張の糸が途切れなかった「不屈の民」は圧巻。万華鏡を思わせる音の世界でありながら、どこか人懐っこさを漂わせ、血を通わせていた。
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今回もピアノはホール備え付けのヤマハで、かなり使い込まれた感じが演奏に良い味わいを出していた。プログラミングはいつも〝普通〟でないし、新潟県から愛知県を経由してドイツ、フランスと渡り歩き、帰国後に初めて東京を本拠としたので実力の割に知名度が低い。幸い、大瀧のピアノに惚れ込んだ人たちがコンサートやディスクの制作に乗り出し、一歩ずつ知名度と評価を高めつつある。まるで余談ながら、実の父親と私の生年月日が完全に同じだと聞いて以来、大瀧の活動をハラハラと見守るようになったのは、彼の作戦勝ちか?
オルレアンのコンクールで優勝した際の副賞のディスク制作をバルトークとして以来の傾倒と、ハンガリー音楽史上の後継者に当たるリゲティを結びつけた前半。シュトゥットガルト時代の恩師、トーマス・ヘルはリゲティの「エチュード」の録音と実演を通じ、世界的評価を高めた名手であり、大瀧も鋭い感性と強じんな技巧でリゲティの隅々までを描いた。上半身の安定と無駄のない力の支えで肘から先の腕と手を俊敏に動かし、繊細な弱音からホールが轟く強音まで、楽曲が求める振幅を漏れなく再現。透明水彩を塗り重ねていくように淡く、控え目な色彩感については賛否両論もあるだろうが、私はテクスチュアの明快さを損ねないメリットの観点から、積極的に支持したい。その透き通る高音の魅力は、海の燦きと秒針の刻みを想起させる松岡作品を輝やかせ、フランクのフーガの構造を隅々まで解析した。
ロシアの作曲家ウラディーミル・レイチキス(1934−2016)が1台ピアノ用に編曲した「ボレロ」を掘り起こしたのは、またしてもピアニストで楽譜コレクターの江崎昭汰。素晴らしい手腕だと思う。とにかく、あの色彩あふれる管弦楽のスコアをピアノ1台に置き換えるのだから、難易度は半端なく高い。大瀧も汗だくの大奮闘で、奇抜な編曲にも格調を保ちつつ、「ボレロ」に対する聴き手のイメージを損ねない音楽に仕上げていたのは立派だった。繰り返し書くけれども、もっと知られていいピアニストである。
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