2108年11月7日、内田光子リサイタル@サントリーホール。シューベルトの第4番イ短調D.(ドイッチュ番号)537、第15番ハ長調D.840、第21番D.960とソナタ3曲の直球プログラムに対しては、聴く側も真剣にならざるをえない。外交官令嬢として幼少期をドイツ語圏で過ごし、ヴィーンで受けた音楽教育を基盤とするピアニストにとって、シューベルトを奏でるのは帰郷=Heimkehrに等しい意義もあるのだろう。だが、私がそれと同時に思うのは、第2次世界大戦後の復興〜高度成長期を体験した日本人とドイツ人に共通する「刻苦勤勉」の精神が、一見コスモポリタンの内田の体内にも強く宿っているとの実感である。とにかく対象の内面に迫ろうと、なりふり構わず努力する。かつてザルツブルクでインタビューしたとき、内田は「私にとって3人の神様」としてシューベルト、中世ヴュルツブルクの彫刻家リーメンシュナイダー、画家ゴッホを挙げた。「なぜ、ゴッホ?」と訊き返したら、「それはゴッホの手紙を読めば、わかります」と言われ、岩波文庫を必死に読んだのは懐かしい思い出だ。芸術の本質へ接近する手間暇を惜しんではならない。刻苦勤勉型の3人を「神」と崇める内田もまた、そこに連なるアーティストだ。
この晩、前半は集中力と精度に事欠かなかったにもかかわらず何かが「滑って」いて、奏者が必死にファインダーを覗き込むのが痛いほどわかっても、音楽を聴く愉悦(それが例え、悲しい曲であっても)や陶酔に至らないもどかしさを覚えた。後半は、皇后陛下美智子様ご来臨が華を添えにしても、楽曲は長大で難儀な変ロ長調(B-Dur=ベードゥア)のソナタである。繰り返しを全て行ったので演奏時間は50分に及んだが、瞬時も弛むことなく、シューベルトが最後に獲得した宇宙を深く、壮大に再現した。繰り返しの結果、長大になった第1楽章は万華鏡のようなニュアンスで飽きさせず、第2楽章の深みへと聴き手を自然に誘う。意外だったのは第3楽章で、中間部のヴィーン情緒を敢えて強調せず、よりユニバーサルな音楽に再現していた。最終楽章は様々なニュアンスを散りばめながらも一気呵成。前半はいささか戸惑いがちだった拍手だが、後半は歓声、スタンディングオベーションを交え、熱狂的な反応に一変した。お客様の耳はつくづく、正直に反応する。ベードゥアを聴き進むうち、私の対話している相手がシューベルトなのか内田なのか、まるでわからなくなったというか、両者が一体化したというか…。こうした状態に至るのを、名演奏と言うのだろう。
アンコールはJ・S・バッハの「フランス組曲第5番」のサラバンド。内田のバッハは珍しいが、ひたすらシューベルトの孤独と向き合った本編とは対照的に、なごみ系の音楽だった。
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