• 池田卓夫 Takuo Ikeda

オペラは未来志向? 日生劇場の菅尾友演出「コジ・ファン・トゥッテ」に思う


東京・日比谷の日生劇場でモーツァルトの歌劇「コジ・ファン・トゥッテ」を菅尾友(写真、日生劇場ホームページより)演出でみた。同劇場の「コジ」といえば2000年11月、イタリアの演出家ジョルジョ・ストレーレル(1997年没)生前最後のオペラ演出となった舞台を携えたミラノ・ピッコロ・スカラ座日本公演(エンリーケ・マッツォーラ指揮、まだ無名だったヨナス・カウフマンがフェルランドを歌った)の静寂な美しさが今も脳裏に焼き付いている。18年の時を隔てた菅尾演出はパリス&ニッキーのヒルトン姉妹を想起させるフィオルテリージ、ドラベッラが実はAI(人工知能)搭載のロボットで、狂言回しのドン・アルフォンソはすべてを予めプログラミングしたマッドサイエンティスト(アメリカ往年のおかまピアニスト、リベラーチェを彷彿とさせる風貌)、フェルランドとグルエルモはその配下(ゼミ生?)でボスの意図をあまり理解できないままパソコンと向き合い、女性2体をはじめとするロボットのプログラミングを入力する若者に変身している。オペラ演出では斬新かもしれないが、映画では1982年の「ブレートランナー」、創作オペラでは1996年の神田慶一(台本、作曲、指揮)の「クローンのジュリエットはロミオの夢を見るか?」などに同様の問題意識が存在したと記憶する。


第1幕では「表現したいこと」が山ほどあり過ぎ、あまりに饒舌な視覚が18世紀音楽との「軋み」を生んでいた。現代の日本人、とりわけ若い世代にローレンツォ・ダ・ポンテ台本のメッセージの普遍性を最大限に伝えたいとの意図は痛いほどわかるのだが、写真週刊誌のスキャンダル激写、ワイドショウのレポーターもどきの助演、マッドサイエンティストの筋トレフェチぶり、トイレという「不浄」の場の多用……と次から次に繰り出されるアイデアがいささか煩わしく、照明と色彩の多用で頭と目がクラクラする感なきにしもあらず。それも強烈な表現意欲のなせるわざだろうと許容してもなお、2点の疑問が残った。1つは腰掛便器で「大用」を足す際、最後にちゃんと「ジャ〜」と洗浄流水音が鳴るにもかかわらず、アルフォンソがパンツを履いたままという矛盾。演出家は観客をダ・ポンテ&モーツァルトの真意に誘導するミッションを担っているのだから、「何か特殊な構造の下着なのか?」などと、余計な詮索をさせてはいけない。もう1つはデスピーナが余りにも「家政婦は見た」の市原悦子みたいに庶民的出で立ちで、その一角だけ、未来志向のビジュアルと隔絶されていたことだった(これには後半、思わぬ「どんでん返し」が用意されている)。自分の好みでは、「紀州のドンファン」事件に登場した「ゴージャス過ぎる家政婦」を拝みたかった。


ワーク・イン・プログレス! 第2幕ではドラマトゥルク(長島確)も演出家も「AIは愛を語れるか?」の描写に格段の冴えを示し、つくづく、前半でギブアップしなくて正解だったと思った。ロボット姉妹に人間の愛欲を仕込むインストラクターと化したデスピーナがダサい仕事着を脱ぎ捨て、SMの女王様を思わせる黒いボディコンのコスチュームに早変わりした瞬間、客席から拍手と歓声が起こった。やはり皆、「紀州のドンファン宅の家政婦さん」的過剰を期待していたのだ!(笑) その後は非常に納得のいく視覚が続き、安心した。


日本ではかつて、新国立劇場「小劇場シリーズ」や全国各地の地域オペラが若い演出家に修業の場を提供していた。前者は終わり、後者は社会の高齢化や経済的困難で公演数の大幅な減少に直面している。演出家で日生劇場の芸術監督、粟國淳も駆け出し時代に新国立劇場の小劇場シリーズで頭角を現した世代だが「最近は若い演出家が失敗を恐れず、あれこれ試行錯誤できる舞台が減ってしまい、気の毒だ」と指摘する。日生劇場が定番のモーツァルトで安全策をとらず、菅尾や田尾下哲、佐藤美晴ら若い世代に大劇場の演出機会を与え続けていることの価値は、非常に高いのではないだろうか。菅尾の場合、ドイツの中規模劇場の新演出を任される機会が多いので、どうしても新聞の文化欄やオペラ専門誌の評論家が好む過激な挑発を軸に置きがちで、オーソドックスな美しさの追求は、考慮の範囲外にあるようだ。


「コジ・ファン・トゥッテ」の2018年11月11日公演。管弦楽の広上淳一指揮読売日本交響楽団は、この組み合わせから想像される「濃い」音楽ではなく、むしろ控えめな色彩の追加に徹していたのが意外。もちろん何箇所か、広上ならではの生気にあふれた瞬間はあった。フィオルテリージの高橋絵理、ドラベッラの杉山由紀、フェルランドの村上公太、グリエルモの岡昭宏のカルテットは作品が求める「若い恋人たち」にふさわしい年齢の若手ぞろい。個々の歌唱水準の高さだけでなく、アンサンブルの良さ、演出家の過酷な要求に応じられる演技力などの諸面で大健闘した。アルフォンソの大沼徹は相変わらず美声の芸達者。デスピーナがキャスト中最年長の腰越満美というのも異彩を放つが、美しい容姿と「おばさん」の開き直りのミスマッチは強い存在感を示す。数日前に腰を痛め、発声に不安を抱えていたにもかかわらず、豊かな舞台経験を生かし、唯一「生身の女」であるデスピーナの存在意義を印象づけたのは、さすがだ。

© 2018 音楽ジャーナリスト@いけたく本舗

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