
アラン・ギルバートが首席客演指揮者を務める東京都交響楽団と共演するのは2019年12月以来1年6か月ぶりだった。半径2m以内の人的接触を徹底して避ける「バブル方式」で来日し、2公演を指揮した。私は2つ目のプログラム、2021年7月1日の第931回定期演奏会Bシリーズをサントリーホールで聴いた。アランは上手から現れ、客席1列目つたいに移動、再びステップを踏んで指揮台に上がる。前半は20世紀スウエーデンの作曲家アラン・ペッテション(1911ー1980)の「交響曲第7番」(1968)、後半は小曽根真を独奏に迎えたラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」(1901)。ギルバートはスウエーデン人と結婚してストックホルム在住、ロイヤル・ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団桂冠指揮者のポストも持つので、かつての同フィル首席指揮者アンタル・ドラティに献呈されたペッテション「第7」を自らの重要なレパートリーに位置付ける。
切れ目なし45分間の長大な交響曲だが、小室敬幸氏がプログラムに執筆した楽曲解説によれば「実質4楽章構成」。第3楽章相当部分の弦楽合奏による親しみやすく、温かな旋律が初演時から好評だったのは理解できるが、全体は陳腐な形容ながら「北欧的」としか言いようのない内向的感情のベクトルと太古につながる悠然とした時間軸に支配され、日本人には取っ付きにくい作品かもしれない。アランは都響のアンサンブル(ソロ・コンサートマスター=四方恭子)を隅々まで磨き上げ、自身の温かい人柄も反映しながら、全く飽きさせず聴かせることに成功した。
小曽根がジャズからクラシックに表現領域を広げて20年あまり。還暦の今年、ついにラフマニノフに歩を進めた。第1楽章はまだ慎重、しばらくはアランと都響のゴージャス極まりない管弦楽が主役かと思ったが、次第にモーツァルトからラフマニノフに至る「鍵盤の名手が自身の演奏を前提に作曲した協奏曲」の歴史を俯瞰、ラフマニノフの技よりも心情に寄り添いつつ、自分の立ち位置を探る小曽根の〝確信的アプローチ〟を意識した。巨大な体躯と手に恵まれたロシアの巨匠芸とは違う角度から、20世紀最初の年に生まれたモダン・ミュージックとしてのラフマニノフをアランともども、丁寧に華麗に再現しようとする問題意識の一致にも想像が及んだ。
果たして、第2楽章では次第に装飾音が増え、終盤のカデンツァはジャズ・フレーバー満載の即興OZONEワールドに拡大され、聴衆は息をのんだ。小曽根がソロを奏でる木管楽器奏者それぞれと十分なアイコンタクトをとり、室内楽的な対話を絶えず意識していたのにも好感が持てる。第3楽章はアランと都響の輝きが一層の熱を帯び、小曽根が果敢に応戦しながらクライマックスへと突き進む。大詰めでピアノ、管弦楽それぞれが大見得を切る箇所でもOZONE版カデンツァが挿入され、凡人なら「大事な瞬間の緊張を削いだ」のそしりを免れない場面で、底知れない音楽性のポテンシャルを開示し、客席のみならず楽員まで魅了したのだから唖然とする。客席と舞台上双方から熱い拍手が続き、楽員がはけた後、小曽根とアランが再び姿を現し、聴衆の熱狂に応えた。
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