• 池田卓夫 Takuo Ikeda

わが青春の都響、そしてインバル。ショスタコーヴィチ5番は3度目の駄目押し


エリアフ・インバルを最初に聴いたのは1970年代後半。読売日本交響楽団に客演した初来日(1973年)ではなく、日本フィルハーモニー交響楽団へ頻繁に客演していた時期に当たる。中でも1979年のマーラーの「交響曲第9番」は思い出に残る名演奏だった。39度Cの高熱をおして東京文化会館へ出かけたのだが、最終楽章の消え入るような響きに耳を委ねるうちに気分が好転して熱も下がり、思わず楽屋に寄ってサインをいただいた。後年「あの時、歯列矯正のブリッジをなさっていましたね」と話すと、「何でそんなこと、覚えているんだ。お前はヘンな奴だ」と言われた。当時大学生の私は日本フィルと東京都交響楽団(都響)、NHK交響楽団(N響)の定期会員だった。都響ではインバルより5歳年長の同じくユダヤ人指揮者で、私の音楽上の「師」に等しいモーシェ・アツモンが渡邉暁雄の後を受け、首席指揮者を務めていた。


やがて私は経済記者としてフランクフルトに転勤、自宅とオフィスの中間にあったアルテオーパーでヘッセン放送協会(HR)のオーケストラ(通称フランクフルト放送交響楽団)の首席指揮者だったインバルの演奏会を無数に聴き、今は亡き川口義晴さんが担当された日本コロムビア(DENON)とHR共同制作の録音現場に立ち会った。前後して都響への客演が始まり、当時の楽団主幹、今村晃さんから「インバルと連絡がとれません。街に出て、探してきてくれませんか」と早朝、東京からの怪電話?をいただいたこともある。日本の都市より小ぶりとはいえ、人口約60万人のフランクフルト・アム・マインの路上に出て、インバルと遭遇する確率は限りなくゼロに近い。マエストロは当時、近郊のオーバーウアゼルに住んでいて、自宅を訪ねると意外にも気さくで、コーヒーをご自身で淹れてくださったりした。


そのころ、ただ一度だけ、インバルが川口さんにライヴ録音を兼ねた定期演奏会の終演後、楽屋で「こんな演奏の録音、発売するな」と怒りまくったのが、ショスタコーヴィチの「交響曲第5番」だった。その日は本来のコンサートマスターが休暇中で、ベルリンから、かつて名門オーケストラのコンサートマスターだったという某音大プロフェッサーがゲストに招かれたのだが、「昔取った杵柄」の真逆、箸にも棒にもかからないほど酷いソロを弾き、指揮者の逆鱗に触れたのであった。このアクシデントは、DENONへのショスタコーヴィチ交響曲全集の録音がHRのオケではなく、ウィーン交響楽団で実現するきっかけをつくった。


私が日本へ帰国した1992年から程遠くないタイミングで、インバル指揮都響の同曲をサントリーホールで聴いたが、アルテオーパーでの悪夢を忘れさせるほど、素晴らしい演奏だった。そのさらに約四半世紀後の2019年3月26日、東京文化会館大ホールの都響第874回定期演奏会では、私にとって生涯3度目の「インバルのタコ5」を聴くことができた。


インバルが初客演した30年近く前と比べ、都響の技量は格段に向上した。もはや83歳となる老巨匠だけに解釈の基本は揺るぎない半面、余計な感情を交えずに管弦楽をフィジカルに鳴らしきるハードボイルド路線を極限まで進め、長く信頼関係にある都響に対しても際どい即興の球を平気で投げてくる。コンサートマスターの矢部達哉をはじめ、都響の全員がインバルの球を見事に打ち返すので、音楽がどんどん面白くなる。ショスタコーヴィチの前半2楽章を敢えて淡白に処理、第3楽章で崇高なパトスを築き、終楽章の狂気の乱痴気を一段と激しく再現した。そこに恐ろしいほど早いテンポが採用されても、都響は一糸乱れずについていく。3度目にしてインバルの「タコ5」は駄目押しの様相を呈してきて、見事だった。


前半にはブラームスの「悲劇的序曲」、ガブリエル・リプキンをチェロ独奏に迎えたブロッホの「ヘブライ狂詩曲《シェロモ》」が演奏された。ブラームスの〝モダンタイムズ〟的な変容では、インバルと作曲家の微妙な相性を再確認。リプキンのチェロは相変わらず軟体動物のように形を伴わず、音も盛大に外すが、作曲家と指揮者、独奏者の全員が共有するユダヤのバックグラウンドの説得力の前では致命傷に至らない。インバルの激しい同胞愛が、すべてを救った。リプキンの楽器は非常な名器らしく、とても良い音がした。ここでの都響の管弦楽の出来栄えもまた、インバルの「雄叫び」に鼓舞されたのか、当夜の白眉といえた。



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