2012年の《タンホイザー》に始まり《ワルキューレ》《さまよえるオランダ人》《びわ湖リング(ラインの黄金・ワルキューレ・ジークフリート・神々の黄昏)》《ローエングリン》と続いた「びわ湖ホール プロデュースオペラ」のワーグナー上演。2022年3月3、6日の《パルジファル》は、2023年3月に《ニュルンベルクのマイスタージンガー》を指揮して退任する沼尻竜典芸術監督にとって「before the last」(最後から2番目)の演目だ。コロナ禍のために前年の《ローエングリン》の粟國淳に続き、《パルジファル》の伊香修吾もフルの舞台演出ではなく、映像を交えてセミステージ形式の「構成」で視覚を補った。
本来は一部ダブルキャスト、3日の題名役にクリスティアン・フランツ(テノール)、クリングゾルは両日ともユルゲン・リン(バスバリトン)を予定していたが、感染症対策の入国規制で来日できず、両日ともそれぞれ福井敬、友清崇のシングルキャスト2回公演に変わった。私は6日に観た。オール日本人キャストのバランスがとれ、じっくりと歌い込んだ味わいにも富んでいて、日本オペラ界の現総力を結集した高水準の上演に仕上がっていた。
何より、沼尻の緻密と情熱を兼ね備えた入魂の指揮に応え、京都市交響楽団(コンサートマスター=泉原隆志)が神韻縹渺(しんいんひょうびょう=不可思議な気韻が、あたり一面に広がる様子)たる響きを保ち、聖金曜日(キリスト教の教会暦における聖週間と「聖なる三日間」の中で,キリストの受難と死をとくに記念する金曜日=いずれもWebサイト「コトバンク」より引用)の音楽にふさわしい深い祈りをたたえていたのが素晴らしかった。京響はオペラハウスのオーケストラではないが、2013年の《ワルキューレ》単独上演を除く沼尻&びわ湖ホールのワーグナーすべてに付き合い、学生時代の副科で福井に声楽を師事した小谷口直子(首席クラリネット)らオペラ好きの楽員もいて、着実に表現力を蓄えてきた。
福井と友清、クンドリーの田崎尚美は東京二期会で2012年9月、クラウス・グート演出&飯守泰次郎指揮のプロダクションの《パルジファル》全曲を経験、さらに今年7月の宮本亞門演出&セバスティアン・ヴァイグレ指揮のプロダクションにも出演する予定。この3役では日本の第一人者といえる。福井のゆとりとしみじみした歌いくち、田崎の情念、友清の鮮やかなドイツ語さばきとキャラクター造形は強い印象を与えた。青山貴の一段と引き締まり、様式感に磨きをかけたアムフォルタス、ティトゥレル妻屋秀和の安定感、「暗譜する単語の数が一番多いに違いない」と思うグルネマンツに体当たりで挑んだ斉木健詞の低声3人も充実していた。某オペラ団でキャスティングを手伝っていた時、「イタリアオペラ命!」だった斉木を「将来は絶対、ワーグナーで大成する」と説き伏せ、マルケ王に抜擢してからもう20年になる。今回は「丸暗記」だけで大変だったと思われ、更なる掘り込みに期待。びわ湖ホール声楽アンサンブルの合唱(指揮=大川修司)はディスタンス重視、マスク着用のハンディにもかかわらず、《パルジファル》で合唱が担うべき重要性をクリアしていた。
伊香のステージングは、ほんのちょっとした衣装の工夫、役が体に入った中堅&ヴェテラン歌手の何気ない仕草をうまく生かし、人間関係と物語の図式を手際よく視覚化した。映像の多用が煩わしい瞬間もあったが、延々と続く「お経」のようなワーグナー最後の作品(もはや楽劇でもなく、舞台神聖祝典劇と規定)の音響に豊かなイメージを与え、初心者の鑑賞の手助けにもなったはずだ。オーケストラ後方高台の合唱ゾーンの中央に下手から中央に向け右上がり、舞台奥に消える坂道をしつらえ、晩年のワーグナーが接近した仏教思想、天竺への道を象徴したアイデアも評価したい。
1998年のベルリン国立歌劇場日本ツアー中にNHKホールでただ1回、音楽総監督(GMD)ダニエル・バレンボイムが指揮した《パルジファル》演奏会形式上演の会場で、スコアを携えた沼尻に出くわした。まだ昨日の出来事のように覚えているが、実際は四半世紀の歳月が流れた。2022年の《パルジファル》に至るまで日本の内外で多彩な経験を積みつつ、自身の内面で醸成させてきた音楽の実りを昨日、びわ湖ホールで確かに聴いた気がする。
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