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執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

どうしてもブラームスを聴きたい!〜晩秋の夢をかなえてくれた鷲見&トドロキ


日本の弦楽器教育に大きな足跡を記した鷲見ファミリーの直系で、イタリアで長く活躍したヴァイオリニストの鷲見恵理子。最近はテレビのバラエティ番組で「天然」キャラが人気を博しているらしい。私は最初のCDをリリースした20年ほど前に知り合い、フランクの「ヴァイオリン・ソナタ」の演奏会に出かけた記憶がある。「2020年11月24日、ヤマハ銀座コンサートサロンでブラームスの《ヴァイオリン・ソナタ》全3曲を弾きます。聴きにいらっしゃいませんか?」とお誘いのメールをいただいた瞬間、直感したのは「晩秋にブラームスの室内楽に触れる際に抱く、特別な感覚と感情」であり、「ぜひ聴きたい!」と即決した。


ピアノは東京音楽大学附属高校を卒業して渡米、テキサス大学学士課程やニューヨーク大学修士課程などを修了して以後、ニューヨークを拠点に活動するエミィ・トドロキ・シュワルツ。ジェンダー(性差)に対する考え方が大きく変化した今日、演奏家の性別を論じるのはリスクを伴う行為だが、折に触れ室内楽の演奏会もプロデュースしてきた立場の実感としては、女性どうしのデュオはどこか重心が定まらず、事故が起きると2人してフリーズしがちなのだが、今日の2人は全く違った。多少の傷は承知の上、果敢に攻めながらも音程やフレージングに絶えず気を配る鷲見、輝かしい強音を出せるにもかかわらず、基本を弱音から中くらいのゾーンに置き、独特の浮遊感を漂わせるトドロキのデュオは良い意味〝頑丈〟だ。


ちょっとやそっとではブレない安定感を武器に、鷲見は奔放な歌心でブラームスの音楽世界を歌い上げ、トドロキはドイツ音楽あるいはブラームスに特有の低音の土台を固めながら、互いのソロとオブリガートの交替も抜かりなく実行する。小規模サロンのデッドな音響は、息遣いが大きく、時に弦を軽くつまびきながら音程を確かめる鷲見の行き方には多少不利と思え、「第1番《雨の歌》」では演奏ノイズが気になりもした。だが「第2番」「第3番」と曲を追って緊張がほぐれるにつれノイズは極小化、鷲見のスケールの大きさが際立っていった。トドロキのピアノが鷲見と同じくらいハイテンションだったら、かなり絶叫調のブラームスになっていたはずだが、十分なキャッチボールを繰り広げながらもコントロールに優れ、やや控えめなポジションに徹するトドロキの知性とセンスが美しい調和を可能にした。


アンコールの最初は、この曲目の演奏会の定番である「F.A.E.ソナタ」のスケルツォ。恩人シューマンの呼びかけでヴァイオリニストのヨアヒムのためにシューマン、ブラームス、ディートリヒの3人が1楽章ずつ作曲したソナタで、ブラームスはスケルツォ楽章を担当した。「F.A.E.」はブラームスの人生訓、「自由、されども孤独(frei aber einsam)」の頭文字だ。鷲見&トドロキ・デュオの奔放の極限を示した。続く「ハンガリー舞曲第2番」では鷲見が客席の手拍子を促し、「まじめなソナタ」3曲の後のガス抜きを試みた。「鷲見さんは調子のいい音楽で終わることをよしとされず『皆さんに心温まる思いで家路についていただきたい』とのことで、もう1曲演奏させていただきます」とトドロキが告げ、奏でられたのはJ・S・バッハ(ウィルヘルミ編曲)の「G線上のアリア」。「どうしても今、ブラームスの室内楽を聴きたい」との私的願望がかなったうえ、2人の演奏家の善良さにふさわしい幕切れで心が洗われた。上手ながら「邪悪なオーラ」に満ちて後味の悪い演奏というのは結構あり、こちらの心身にも何かネットリとまとわりつくのを感じたりするのだが、今回は全くの正反対だった。デトックス(解毒)効果満点の演奏に遭遇できて、本当に良かった。

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