一見おっかなそうなイメージだけど実は気さく、博覧強記で話が弾むインタビュー名人ーーロシア出身のピアニスト、ヴァレリー・アファナシェフの雰囲気は20年くらい前に対面で取材した時も今回のZOOM会話も、全く変わりがなかった。2021年の来日は2023年まで3年がかり、東京・銀座の王子ホールでで続ける新たなリサイタル・シリーズ「TIME」の開始を告げるものだ。先ずはトリロジー(3題話)の曲目を列挙する:
《2021年》
J.S.バッハ「平均律クラヴィーア曲集 第1巻より8つの前奏曲とフーガ」 第1番 ハ長調 BWV846 第2番 ハ短調 BWV847 第7番 変ホ長調 BWV852 第8番 変ホ短調 BWV853 第21番 変ロ長調 BWV866 第22番 変ロ短調 BWV867 第23番 ロ長調 BWV868 第24番 ロ短調 BWV869
モーツァルト「幻想曲 ハ短調 K475」 「ピアノ・ソナタ ハ短調 K457」
《2022年》 シューベルト「楽興の時」 ブラームス「6つの小品 op.118」「2つのラプソディ op.79」 《2023年》 シルヴェストロフ「オーラルミュージック」 ドビュッシー「3つの前奏曲」 プロコフィエフ「風刺」
大バッハからシルヴェストロフまでアファナシェフのアイデンティティ、ピアニストの歩みを鍵盤音楽の歴史とともに俯瞰する素晴らしいプログラムである。早速、色々と質問する。
ーーソニー・クラシカルから2017年に「テスタメント」(遺書)という6枚組のソロアルバムをリリース、「もう終わりなのか」と錯覚したら、その先がありました。
「当時はまだ、新型コロナウイルス感染症(COVID−19)パンデミック(世界拡大)とは無縁の日々でした。20世紀末の時点までさかのぼれば、パーキンソン病やアルツハイマー症候群といった難病も『2000年代最初の10年で何とかなる』と楽観していたのです。それがコロナで移動すら遮断され、世界は『動けない問題』を共有しています。私は非常に孤独な人間で日ごろから小説・エッセイを書いたり、ピアノをさらったり、さらには舞台に立ったり…と、1人で存在する時間と空間が好きなのです。パンデミックのロックダウン中は空気が浄化され、人混みや雑音が減り、執筆や思考により多くの時間を割けました。インターネットが発達したおかげで、スピノザやヘーゲルの講義に改めて触れることができたのも収穫です。『自分はパンデミックをやり過ごす達人だ』などと思い始めたところで突然、音楽への強い気持ちが生じました。モスクワで生まれて初めて、ショパン作品だけのリサイタルを行ったのも新しい展開です。『TIME』もビッグバン(宇宙開始時の爆発的膨張)の産物として誕生した人類が代々引き継いできた1つの遺伝子の軌跡ようなものを音楽史、とりわけ鍵盤独奏曲の分野でたどりたいとの思いから構想した〝ピアノの物語〟です」
ーー3回の選曲、組み合わせはマニアックなようでいて、非常に理に適っています。
「良いチョイスでしょう?(笑)『テスタメント』はハイドンで始めましたが、ハイドンは2年前の日本公演で集中して弾いたので外し、ベートーヴェンも記念年の直後だから省き、最もコアな基盤であるJ・S・バッハとモーツァルトに絞って、2人の音楽史への貢献を振り返ります。2年目は非常に孤独な2つの精神、シューベルトとブラームスの内面に目を向けます。私の人生は政治的でも熱狂的でもありません。シューベルト、ブラームス、あるいはショパンと同じで『ごく普通の家庭生活』には無縁、『あなたを愛する人々に囲まれ、あなたも人々を愛する』境遇が現れたとしても瞬間で消え、不運がとって代わります。才能も運命もただ神様の贈り物と考え、受け入れるしかないのです。3年目は近現代。ドビュッシーは自然界の音をあるがままに聴き、その個人体験を極めて感情的に伝える作曲家です。プロコフィエフには今も前衛と呼べる側面があり、現代の作曲家に影響を与え続ける半面、『古典交響曲』をはじめハイドンに直結した作品も残しています。シューベルトとブラームスもバッハと深くつながっており、3回すべての作曲家が結びつき、継続した大きな輪を描きます。私たちが生き残るためにもつなげ続けなければならない鎖が、ここに存在するのです」
ーーあえて、COVID-19パンデミックがもたらした「成果」を挙げるとすれば。
「多くの人々がレコーディングに回帰したことだと思います。40年前にはまだ実演に接することができた恩師で個人的にも親しかったエミール・ギレリス、ヘルベルト・フォン・カラヤン・アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリといった人々の演奏に、改めて耳を傾けました。録音はコンサートと異なる『死んだ音楽』との主張がありますが、それは間違いです。より古い時代のヴィルヘルム・フルトヴェングラー、アルトゥーロ・トスカニーニ、ブルーノ・ワルター、ハンス・クナッパーツブッシュ、オットー・クレンペラーらの録音でも今日なお、力強く語りかけます。私が指揮に手を染めた時期に理解したのは『偉大な指揮者の時代は終わった』『現代のオーケストラの音は好きではない』という厳しい現実です。待機期間中、フリッツ・ブッシュが指揮したブラームスの《交響曲第1番》のレコードに聴くオーケストラの響き、指揮者のヴィジョンにはとりわけ深い感銘を受け、つくづく『もはや聴けない類の音楽だ』と思いました。もう一つ付け加えれば、自宅で録音を聴いている時は演奏会と違い服装に気を遣う必要もないので、音楽だけに集中できます。美味しい寿司があり、スーパーマーケットで何でも欲しいものが手に入るだけでなく、ありとあらゆるレコーディングがネットではなく、実際の店頭で買える国は日本くらいです。もはや『どの国に住みたいか?』と問われれば、躊躇なく『日本』と答える段階に、私はきています!」
ーーありがとうございました(2021年11月11日取材)
《2021年リサイタル日程》
ヴァレリー・アファナシェフ(Valery Afanassiev)
1947年モスクワ生まれ。モスクワ音楽院にてヤコフ・ザークとエミール・ギレリスに師事。ライプツィヒのバッハ国際コンクール(1968年)およびブリュッセルのエリーザベト王妃国際音楽コンクール(1972年)で優勝を飾った。1974年に政治亡命者としてベルギーに保護を求め、現在、同国で暮らしている。 アファナシエフはこれまで、みずから執筆した解説を添えたアルバムを約70作リリースしている。彼のねらいは、作曲家の意向をめぐる自身の洞察の全体像を聴き手に示すことにある。この試みは、アファナシエフが詩的な錬金術を展開する実験工房への“ガイド付きツアー”にたとえられる——そこでは、詩、哲学、絵画、カバラ、さらにワインまでもが、記譜法と同等の規準として扱われうるのである。
アファナシエフは現在、ソニー・クラシカル・レーベルと録音契約を結んでいる。6枚組のボックス・セット『テスタメント(遺言)/私の愛する音楽』は、2019年度の音楽之友社「レコード・アカデミー賞」(特別部門)に輝いた。
またアファナシエフは、数年にわたり世界各地の様々なオーケストラを指揮してきた。彼は、自身が尊敬する指揮者たち——フルトヴェングラー、トスカニーニ、メンゲルベルク、クナッパーツブッシュ、ブルーノ・ワルター、クレンペラー——が織りなしたサウンドとポリフォニーの一端を表現できるよう努めている。
作家でもあるアファナシエフは、ダンテの『神曲』の評釈をまとめた大著を含む多数の小説、詩集、随筆集を執筆している。さらに、《展覧会の絵》と《クライスレリアーナ》から霊感を得た2つの劇作品を書き上げ、みずからピアニストおよび俳優として4か国語で上演した。またアファナシエフはカフカの『流刑地にて』にもとづく戯曲を完成させ、同作品内ではモートン・フェルドマンの《マリの宮殿》を演奏している。
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