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執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

「蝶の羽の震え」のように繊細な管弦楽二期会「蝶々夫人」のバッティストーニ


初日終演直後、東京文化会館の楽屋で

「アイーダ」(1871)でベルカント歌劇の伝統の極限に到達したヴェルディは16年の沈黙の後、再びシェイクスピアと向き合い「オテッロ」(1887)、「ファルスタッフ」(1893)とワーグナー楽劇に匹敵する音楽と文学、演劇の総合芸術を完成させた。プッチーニもまた19世紀から20世紀の転換点、1900年に初演した「トスカ」を境に全く新しいオペラの領域を開拓する。オペレッタ全盛のウィーンからの発注に基づく「つばめ」(1917)、唯一の本格喜劇である「ジャンニ・スキッキ」を含む「三部作」(1918)という2つの特例をはさみ1)ヨーロッパを席巻したジャポニスム(日本趣味)を音楽劇に取り込んだ「蝶々夫人(マダマ・バッテルフライ)」(1904)、2)新大陸アメリカのメトロポリタン歌劇場の委嘱で、当時最新のメディアだった映画の作劇術をオペラに逆流させた「西部の娘」(1910)、3)中国とイタリアの古典劇を融合させながら無調など新しい作曲技法の実験を忍ばせた遺作の「トゥーランドット」(死後の1926年に補筆完成)と、画期的な「異国趣味」(指揮者アンドレア・バッティストーニの指摘)の3部作を残した。


東京二期会が宮本亞門の演出、高田賢三(KENZO)の衣装、首席指揮者バッティストーニが率いる東京フィルハーモニー交響楽団と強力な態勢を整えて2019年10月3日、東京文化会館大ホールで初日の幕を開けた「蝶々夫人」は長年の「地元意識」(日本を舞台にしているのだから、日本人が日本人を最も正しく描けるとする幻想)を断ち、モダニストだったプッチーニの音楽の斬新さを徹底して際立たせることに成功した。2012年、24歳のとき「ナブッコ」(ヴェルディ)で東京フィルを指揮して日本デビューして以来、今回が5作目の東京二期会との共同作業になるバッティストーニは日本人歌手の決して巨大ではない声量や、ほんの少しの転調にも適確に反応する鋭敏な音楽性などを今や知り尽くしている。「バッテルフライ」のパルティトゥーラ(スコア)を「血湧き肉躍る」といったイタリアオペラのステレオタイプから解き放ち、徹底した読み込みでR・シュトラウスやドビュッシー、さらにはベルクの同時代人としての音の感覚、多様な色彩をじっくりと、弱音を基調に再現していく。時にはポルタメントなどの古風な装飾を施し、東京フィルの管楽器、コンサートマスターらのソロも美しく引き出しながら、室内楽すら想起させる繊細な管弦楽を現出させた。


亞門演出は長崎の30年後の米国、重病の床にあるピンカートンが息子(三枝成彰のオペラを模して名付けるとすると、「ジュニア・バタフライ」)に長文の遺書を渡し、実の母親はケイトではなく、バッテルフライだったことを明かす寸劇で始まり、青年(ジュニア)が自身の出自を〝目撃〟する形で物語を進める。青年役として出ずっぱりの黙役の俳優、牧田哲也の大健闘は讃えたいが、絶えずドッペルゲンガー(自己像幻視)が付きまとうヴィジュアルが煩わしく思えたのも事実だ。「ある晴れた日に」のアリアを白いシミーズ姿で歌わせるのは1995年、東急文化村がデイヴィット・パウントニー演出、若杉弘指揮で制作したミラノ原典版「蝶々夫人」と同じ発想だとか、ところどころに過去の成功例の「パクリ」がないわけではないが、ベタでキッチュな和風の絵葉書を捨て、文化のギャップが生む普遍の人間悲劇の解明に徹した姿勢は評価できる。シミーズであってもKENZOの衣装は洗練され、結婚式の場面のカラフルな和服の隊列の美しさには、息をのんだ。「なまはげ」を思わせるボンゾの衣装と、仏教徒にとっての「異分子」で、蝶々さんをキリスト教に改宗させた「悪人」のピンカートンを懲らしめるため、4人の「武装集団」を従えて襲撃する演出は一見やり過ぎだが、ヴェルディの「仮面舞踏会」のレナート、ワーグナーの「ローエングリン」のテルラムントが雇った武装集団を連想させ、亞門のオペラフリークぶりが出た場面だと思う。バッティストーニも「ふだん見落とされがちな『ボンゾだけが事の深刻さを理解、悲劇の予言者だった』という実態を適確に視覚化していた」と受け止め、評価していた。


私がとりわけ気に入ったのは、蝶々さんが子どもに目隠しをして小部屋に隠れた後は姿を消し、照明の赤い暗転だけで自刃を示し、子どもがそれを目撃することはなかったとする処理だった。グサッと刀をさして仰け反り、血糊が広がる姿を子役に凝視させる類の演出は、そろそろ終わりにしていい時代ではないか? その後、蝶々さんがイリュージョンの世界で再びピンカートンと結ばれる幕切れ(ネタバレ、ごめんなさい)は、プッチーニが与えた強く悲劇的な和音との間に「きしみ」を生じていたが、亞門らしい優しさの主張なのだろう。


初日組のキャストは、それぞれの好不調や役柄への適性の問題を超え、ヤマドリ役で美声を聴かせた小林由樹(バリトン)ら脇役に至るまで、素晴らしいアンサンブルを達成した。題名役の森谷真里(ソプラノ)は過去の数々の名唱に比べるとやや苦心の跡がしのばれ、声楽的コンディションも絶好調とは言い難かったが、持ち前の劇的表現力や硬質の輝きを備えた音色を最大限に生かし、強い印象を残した。ピンカートンの樋口達哉(テノール)は長く歌い込んできた役をさらに深め、説得力があった。シャープレスの黒田博(バリトン)は声のコントロールに苦労する箇所も見受けられた半面、豊富な舞台経験と優れた容姿を生かし、役になりきっていた。出色だったのは今回が二期会デビューだったスズキ役のメゾソプラノ、藤井麻美。しっかりした低音の土台に伸びやかな高音が乗って発声にムラがなく、イタリア語の発音は美しく、演技には迫力がある。ジュニアを引き取りに来たケイト(成田伊美が好演)との火花散る渡り合いなど、今までのスズキ役の誰よりも強烈な存在感を示し、見事だった。珍しくバリトンのゴローに挑んだ萩原潤は美声で艶やかに歌い上げたものの、ドイツ歌劇での豊富な実績がアダとなったのか、イタリア語の発音や演技の作り込み方に多少の違和感を残したのは残念だった。

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1 commentaire


k_tohdoh
k_tohdoh
04 oct. 2019

ケートにとって、ピンカートンとは、ジュニア・バタフライとはどんな存在だったのでしょう。彼女にとっての30年間は自分をおさえつけての長いものだったのではという気がして気の毒に思いました。 もちろん、二人の男性にとっても苦痛の多い日々だったのでしょうけれど。 などと後日談のほうに気持ちが向かってしまいました。

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