• 池田卓夫 Takuo Ikeda

「紅天女」から読響定期へ〜音楽自体が語りかけるメッセージについて考えた。

最終更新: 1月16日


帰宅後、お台場の夜景を見ながら反芻する

美内すずえ原作・脚本・監修、寺嶋民哉作曲の日本オペラ協会公演「スーパーオペラ〜『ガラスの仮面』より〜歌劇《紅天女》」初演(馬場紀雄演出、園田隆一郎指揮東京フィルハーモニー交響楽団)の両キャストを2020年1月14&15日(5回公演の4回目と5回目)、オーチャードホールで観た。15日終演後はサントリーホールへ回り、下野竜也がかつて首席客演指揮者を務めた読売日本交響楽団の指揮台(第594回定期演奏会)へ2年10か月ぶりに戻り、旧ソ連系と米国の20ー21世紀音楽だけで固めた「攻めのプログラム」も聴いた。


「紅天女」はロングセラー漫画「ガラスの仮面」の劇中劇部分をそっくり抜き出し、「原作ではまだ到達していない着地点まで描いた」(美内)という話題作。2年前に日本オペラ協会総監督を引き継いだメゾソプラノ歌手の郡愛子が新しい観客層の開拓を目指し、長年の友人の美内を創作オペラに誘った成果だ。3連休だけでなく平日も含め5日とも午後2時開演だが、1976年の「ガラスの仮面」連載開始当時からのコアな愛読者と思われる40−50代中心の女性客がつめかけ、ほぼ満席の盛況。興行的には狙い通りの成果を上げた半面、純粋に新作オペラとしての価値判断を下そうとすると、かなり複雑な思いを抱かざるをえない。


一つ前の仕事がヴェルディの「アイーダ」のプレトークで、台本と作曲の制作プロセスから改めて勉強した直後だったため、「紅天女」の台本の語数の過剰が先ず気になった。特に第1幕。別に状況を言葉で説明しなくてもわかるエピソードまで、いちいち原作に忠実、Nebensatz(枝葉)の場面として「紙芝居のように」(同業の評論家による形容)挿入するために場面転換のインターバルが長く、ドラマの展開が停滞する。アリアや重唱、管弦楽の音だけによる描写よりも、とにかく美内の原作における文体をそのまま維持することに主眼が置かれているため、音楽は絶えずレチタティーヴォの伴奏音楽のポジションに甘んじる。


第2幕でようやく阿古夜(紅天女の依り代)と一真の長大な二重唱に至り、オペラらしさが出てくる。だが続いて長老、お豊ら紅天女の〝親衛隊〟が現れ、一真と近付き過ぎると阿古夜が霊力を失う旨、親切に説明して歌う。演出と管弦楽で説明のつく内容に新たな場面、歌を与えることでまた、流れが淀む。とにかくキャストの人数が多すぎ、頭が混乱する。


オペラ「らしい」語法の展開では、第3幕が最も納得できる。戦地に赴く武将・楠木正儀の妻、伊賀の局が歌うアリア「行かないで、貴方」(これはオペラスペシャルの追加だそうだ)からフィナーレにかけては、私たちが慣れ親しんできた創作オペラの世界に最も接近する。それでも自分がプロデューサーなら(僭越、ごめんなさい)、一真が全身全霊で御神木の梅の樹に斧を振り下ろす場面で余韻を残したまま、幕を下ろさせたと思う。それ以降の合唱シーンは感動的だし、馬場が提示したヴィジュアルの中でも最も美しい場面ながら、何度考え直しても過剰感を払拭できなかった。


神仏一体で人間の心身を浄め、争いなく、自然と調和した状態を理想とする美内の世界観、それを願う気持ちと言葉は極めて納得できる。全面的に支持したいメッセージとはいえ台本は演劇の戯曲に近い様式であり、寺嶋のスコアも劇付随音楽の域にとどまっている。歌や合唱など声楽の要素を抜き、演奏会用の管弦楽組曲として出版、演奏できるスコアとはいえないだろう。世界各地で新作オペラの初演を追いかけてきた者としては、かなり異質のアプローチに思えた。美内ファンは原作で印象に残ったフレーズが随所に現れるので感動したろうし「オペラって、面白いわね」と思っていただけたのなら、それで、いいのかもしれない。


演奏は素晴らしかった。園田と東京フィルの管弦楽は隙がなく、石笛・御笛の横澤和也、二十五弦箏の中井智弥という邦楽器の名手2人も強いインパクトを与えた。特筆すべきは歌手たちの日本語。字幕を見なくても、はっきりと聴き取れた。阿古夜・紅天女の小林沙羅、笠松はる、仏師・一真の山本康寛、海道弘昭の主役はもちろん、岡昭宏(楠木正儀)、松原広美(お豊)、龍進一郎(お頭)、丹呉由利子(伊賀の局)らの声が耳を惹きつけた。中でも笠松は東京藝術大学オペラ科を大学院まで修めた後、長く劇団四季で活躍していただけに、巧みな歌にとどまらず、舞台空間全体を切る演技の冴えに一日の長があった。ベルカントテノールのイメージが強い山本も、びわ湖ホールで幅広いレパートリーをこなした時期の経験を生かして非常に明晰な日本語の発音で、創作オペラへの適性も明らかにした。キャストの大健闘により、日本オペラ協会の勇気ある新機軸へのリスペクトを保つことはできた。


感動のカーテンコールを後にして向かった読響定期。前半はショスタコーヴィチの「エレジー」(1931年)とジョン・アダムズの「サクソフォン協奏曲」(2013年、独奏=上野耕平)、後半は2曲とも日本初演でフェルドマンの「On Time and the Instrumental Factor(「定刻、そして器楽の要素」とでも訳したらいいのか、プログラムに邦題が全く記されていないのは何故?)」(1969年)と、グバイドゥーリナの「ペスト流行時の酒宴」(2005年)。プログラム冊子に読響が記した通りの「攻めのプログラム」である。両端が旧ソ連圏、中間2曲が米国という作曲家のルーツのシンメトリーだけでなく、アダムズとグバイドゥーリナでは、ある楽器の音を他の楽器の音と重ね、どっちがどっちなのか意図的に判然としないように響かせる手法の近似を想起させるなど、非常に手の込んだ選曲だった。


わずか5分でショスタコーヴィチのロシアの深い闇が広がり、「天才」と呼ばれる上野の天衣無縫の音楽性がアダムズの音楽をいつも以上に弾ませる。フェルドマンの茫洋とした音の色の揺らぎの後には、求心的な音づくりのグバイドゥーリナが病と死の恐怖を語り続ける。世代も国籍も異にする4人の作曲家によって綴られる生と死、闇と光、否定と肯定の物語は一切の言葉を伴わずして、一つの起承転結を感じさせるだけのドラマトゥルギー(作劇術)を備えていた。〝策士〟下野ならではの練り上げられたコンセプトを読響(コンサートマスターは日下紗矢子)は最善のアンサンブルで現実の音、音響、音楽に結実させた。いくらオペラであっても管弦楽にはこの程度の厚みや構成、色彩があってしかるべきではないかと、昼に聴いた〝スカスカ〟のスコアを思い出しながら切に感じたことは正直に記しておく。

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