20世紀の第1次、第2次両大戦間の世界に開花した近現代芸術運動の1つ、バウハウスは創作と教育を一体に「少を以て多を語る=Less is More」を美意識の基本に置いた。同時代に広まった教養主義は異文化への目も啓き、第2次世界大戦後の東西交流を活発にした。先日の横須賀で上演された能の「隅田川」、これに英国の作曲家ブリテンが触発されて書いたオペラの「カーリュー・リヴァー」の二本立ては好例。ピーター・ブルックやロバート・ウィルソンをはじめとする西洋の演出家が能や歌舞伎から受けた影響も測り知れない。だが、日本の若い世代の演出家が欧米の劇場にも進出しながら、西洋のオペラに新しい視覚を与えようと試みるときは自国の舞台より、欧米の饒舌な手法を範とする傾向が強いように思う。
日生劇場は新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の拡大を受け、2020年11月に予定していたドニゼッティ作曲のオペラ、田尾下哲演出の「ランメルモールのルチア」でソーシャル・ディスタンシング(社会的距離の設定)を徹底、プリマドンナだけに衣装とメイク、演技を施し、他のキャストは黒いついたての後ろの黒装束で〝影歌〟の実質演奏会形式という舞台の〝分断〟を敢行した。ナンバーも休憩なしの約90分まで大幅にカット、上演は「ルチア狂乱の場」で終わり、エドガルドの有名なアリア「わが祖先の墓」は聴くことも観ることもできない。あくまでルチア独り、自らの「死に至る悲劇」を回想する物語に読み替えた。柴田真郁指揮の読売日本交響楽団も編成を大きく絞り、音の不足をピアノで補う。
アイデア自体は秀逸。ベルカント歌劇の頂点を極めたプリマドンナ・オペラの実態を逆手にとり、わかりやすいドラマトゥルギーへ換骨奪胎した田尾下の手腕は確かである。今はCOVID-19シフトの特殊な解決策であっても今後、スコア簡略化も含め、コストを切り詰めたオペラ普及ツアーのパッケージに展開できる可能性を明確に示した。問題は背景の満月やルチアをクローズアップした舞台空間中央に飾ったシャンデリアの頻繁な上下、オーバーハングに並べたワイングラス1つ1つにスポットライトを当てたり消したりの過剰サービス、中央の切り込み=泉から現れる亡霊の強過ぎる存在感などなど、せっかく切り詰めLess is Moreを究めた舞台空間を台無しにする芸の細かさ?だった。ルチアの衣装の必要以上の血まみれ、望まれない新郎アルトゥーロを殺害した剣で何度も何度もベッドを刺す仕草(挽き肉の調理を思わせる)も、モノドラマの求心力を薄めていた。ほぼ全編にわたりスタティック(静的)な動きを保ち、クライマックスの一瞬のみに大きな声と仕草を与える能の上演(眞双会主催「第47回能と狂言の鑑賞会《かたみ夢幻》」=2020年11月15日、国立能楽堂)を翌日に体験した今回はなおさら、オペラ演出の説明過剰が煩わしいと思えてきた。
「ルチア」はダブルキャスト。私が観た2020年11月14日の一般公演(学生向け公演の後)初日は題名役が高橋唯、エドガルトが宮里直樹、エンリーコが大沼徹、ライモンドが金子慧一、アルトゥーロが髙畠伸吾、アリーサが与田朝子、ノルマンノが布施雅也。泉の亡霊は田代真奈美が演じた。高橋はスケールは大きくないものの、可憐な容姿と一致した繊細な歌唱と情のこもったイタリア語さばきで密室のルチアとしてはほぼ理想的だ。宮里、大沼、金子も姿が見えないにもかかわらず、はっきりとした声の個性を示し、歌の存在感があった。髙畠は美声の新進だが、音程の定まらない憾があり、一層の精度向上を期待したい。与田と布施は堅実な歌唱で、脇をしっかりと固めた。姿が見えず声だけ聴こえる場合、それぞれの力量がブラインドテストのオーディションのようにはっきりわかるのは(恐らく)プラス面だが、ルチアとのデュエットで2つの声が別の位置から聴こえてくるのはマイナス面だろう。
柴田の手堅く、歌に精通した指揮は異例ずくめの舞台にあって、ベルカント歌劇のテイストを最終的に保証する砦の役割を果たし、読響も敏感に反応した。色々と書いたが、コロナ禍が生んだオペラの貴重な新機軸だった点には疑いの余地がなく、今後の跳躍を期待したい。
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