新国立劇場が大野和士オペラ芸術監督の「レパートリーの早急な拡大を」との方針を受けて始めたダブルビル(二本立て)シリーズの第1作、ツェムリンスキーの「フィレンツェの悲劇」とプッチーニの「ジャンニ・スキッキ」の新制作を2019年4月17日、同劇場オペラパレスで観た。演出は粟國淳、指揮は沼尻竜典、管弦楽は東京フィルハーモニー交響楽団が担った。
前者が1917年で後者が1918年。初演が同時代の2作品にはイタリア・トスカーナの古都フィレンツェが舞台、ダンテの「神曲」に想を得た共通点と、ツェムリンスキーがドイツ語悲劇、プッチーニがイタリア語喜劇という違いがある。オペラパレスでは東京二期会が2005年にオーストリアの女性演出家カロリーネ・グルーバーのSM調で過激な演出、クリスティアン・アルミンク指揮新日本フィルハーモニー交響楽団の管弦楽で同一のダブルビル、2018年にイタリアの若手ダミアーノ・ミキエレットの才気と機知に富んだ演出、ベルトラン・ド・ビリー指揮東京フィルハーモニー交響楽団の雄弁な管弦楽によるプッチーニ「三部作」の一環で「ジャンニ・スキッキ」を上演。いずれも鮮烈な記憶を残している。新国立劇場には珍しく、外部団体への「貸し公演」の上演が続いた後、独自プロダクションの新制作に乗り出したことになる。
率直に申し上げて今回の新制作、ツェムリンスキーとプッチーニで演出の掘り下げ、歌唱の水準の開きが大き過ぎた。イタリア育ちの粟國がドイツ語台本をイタリア語と同じレベルで読みこなせないのであれば、専門のドラマトゥルグをつけるか、演出家を2人立てるかした方が、賢明だったのではないか? 「フィレンツェの悲劇」の3人しかいないキャストのうち男声2人がロシア人(うち1人、シモーネ役のセルゲイ・レイフェルクスが不調をおして出演する旨、開演前にアナウンスがあった)で、母国への本格デビューを果たした美声長身の斎藤純子がフランス留学後も引き続き同国で活躍していることもあるのか、ドイツ語がほとんど聞き取れない(沼尻のつくる管弦楽が豊麗で、声がマスクされる傾向を差し引いたとしても)。身体表現(アルテシェニカ)も後半のプッチーニに比べると、棒立ちに近く、グルーバー演出で受けた衝撃や刺激、興奮の瞬間は、ついぞ訪れなかった。
「ジャンニ・スキッキ」は一転、随所で客席の笑いを誘って喜劇の王道に徹し、舞台全体が机で人物が「こびと」に矮小化されて遺産相続をめぐる一族の醜態を皮肉り、身体表現にもアンサンブルにも隙がなかった。ただ偶然とは思うが、この「ガリバー旅行記」的な視覚のアイデアはワーグナー生誕200年の2013年にザルツブルク音楽祭でシュテファン・ヘアハイムが演出した「ニュルンベルクのマイスタージンガー」と酷似しており、両方を観た私には、既視感があり過ぎた。沼尻の指揮は引き続き快調。日本人歌手で周りを固め、題名役に大バリトン歌手カルロス・アルバレスを置いたキャスティングも成功、アルバレスが狂言回し以上の存在感を示した。
1992年に日本生命が創立100周年(正確には1989年)記念事業の一環にスペインとの文化交流事業を日生劇場で主催、サルスエラ「山猫」全曲上演とともにプラシド・ドミンゴ(テノール)のオーケストラ付きリサイタルをクローズドで行ったとき、ドミンゴが「薬剤師から歌手になったばかりだけど、将来は絶対に大歌手になる」といい、帯同したのがアルバレスだった。容姿も歌も演技もすっかり恰幅を増し、ドミンゴの「見立て」の正しさを立証した結果にもなった。
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